巡回先のHarropageさんのBLOGで、羽州街道について私見を述べた。述べたからには裏付けが必要。角館への道すがら、羽州街道に沿ってフィールドワーク。
秋田市方面からの羽州街道は国道13号に沿って走り、「どんどん」付近で大仙市に入った後、船岡で峠を越える。坂を下っていくと「新道」という標識の場所で国道から分かれ、左に折れる坂道がある。これが羽州街道の道筋であるとされる。
坂を下りきると、奥羽本線の船岡踏切を渡る。この区間が開業したのは明治37(1904)年8月21日で、翌年に福島~青森間が全通している。「大型自動車通行禁止」とあるのは、踏切の幅員が狭いこと、踏切がカマボコ状に盛り上がっているためではないかと思われる。
踏切を渡るとスグに急な坂道があり、登り詰めたところが一ノ渡集落。坂の途中、右側に「雷神社」という不思議な名前の社がある。雷の被害が多かったのだろうか。謂われを書いた看板が立っていたと記憶しているが、記録してくるのを忘れてしまった。 (ここまで3枚の写真は6月の撮影)
11/04 09:00
一ノ渡集落から南へ向かい、羽州街道が淀川を渡っていた地点「一ノ渡 渡場跡」。ここでは渡場跡と呼ばれるが、「羽州街道における唯一の徒渉地点であった」と書かれた本もあるらしい(徒渉=歩いて渡る)。南側から見たところが1枚目の写真。
11/04 09:00
周囲の状況から見て、橋は街道筋よりもやや上流にずれて架けられているようである。街道筋があったと思われる地点を橋の上から覗いてみると、小屋と橋の間には旧街道筋と思われる、河岸へと続く緩やかなスロープが認められた。この地点で川を渡っていたのは間違いないだろう。
11/04 09:04
橋を渡り、境の集落へ向かう羽州街道をトレースしていくと、奥羽本線を跨ぐ跨線橋がある。 先ほどの踏切とは異なり、この地点では切り通しの中を線路が通されているところから、本来の街道は直線であり、線路工事の際に切り通しが開削され、橋になったのではないかと推測する。
11/04 09:06
羽州街道は現在の国道13号線とは合貝で交差、国道は街道の東側を並行しながら南下、境の集落を抜けて上淀川の集落南端付近で再び街道と交差している。この写真は合貝の交差点から境の集落に向けた入り口の近辺。まっすぐな道に寄り添うスギ並木が、かつての街道の姿を思わせる。
11/04 09:14
境の集落中心部に幾つかある蔵の1つ。近くに立つ御本陣跡の標柱を見ながら進むと、やがて右手に唐松神社の鳥居があり、神社の南側、淀川を渡った台地が唐松城跡になっている。神社前を通り、戊辰戦争無縁慰霊塔のある曹洞宗万松寺を過ぎると上淀川の集落に入っていく。
11/04 09:14
上淀川村は南西方向に流れる荒川と羽州街道が交わり、また荒川を通り角館に向かう脇街道が分かれる。いわゆる繋街道(角館街道)は街道東側に沿う上淀川神明社の南側から東に抜けていくが、途中協和保育園を過ぎて下荒川の三叉路を右へ進んだ先にはかっての荒川城跡がある。
11/04 09:20
上淀川で最も大きな旧家、とはいえ比較的新しい。Harropageさんは「上淀川には蔵がない」ことを不思議がっていたが、私は国道開削時に道路拡幅のために破却されたか、もしくは明治以降に上淀川に大火があり、残らず焼失したのではないかと推測した。
その後、Harropageさんの追跡調査により、上淀川集落は大火で焼けたことが判った。推測が合っていたようで、大学で日本近世史を専攻していた面目を保つことが出来た。ヨカッタ。